クリスチャン 証

「なまぬるさ」から「目を覚ます」へ

本当に意識して目を覚ましていなければ、この世の生活の中に浸かってしまうというのが本来の人間の性質ではないかと、最近思います。もちろん常に聖霊に満たされ御力によって生きておられる方もおられると思いますが、これからの時代はさらにこの世と調子を合わせたクリスチャンが多くなるように思います。

「なまぬるく」ならないように、神様も時には試練も許されますが、そのような事があっても試練の時にだけ神様にすがり、それが解決すると自分の思いでやろうとする、この世界の中で生活することを優先とする、そのようになりがちです。
なまぬく生きないためには、常にうえ乾いて求めることが必要であり、かなり意識してないと世に合わせた生き方に自然と流されていくことを感じます。

心が痛み少しずつしか見れませんが、心を引き締められるために、見ることがあります。https://www.youtube.com/watch?

地獄をみせられることの意味の一つは、すべての人が救われなければならないことと同じく、なまぬるさから抜け出すためでもあることを思います。心を引き締めていく必要があります。

本来、私自身がいくべきだったところ(罪の結果である永遠の死)であることと、数知れない拷問があり、決して出ることができないところ、憐れみも許しも一瞬も休みもないことを見る時、どのような方であっても、このようなところへは決して行かないように、救いを伝えていかなくてはいけない。自分自身も聖く生きていかなくてはいけないことを強く思います。

常にイェス様の十字架は自分のためであるという、原点に帰り、永遠の命に感謝して、それにふさわしい生き方をし、いつも目を覚ましていることができるように。


とりなし手の重要さ

お祈り以外の近道はありませんのメッセージより(22分~)

アメリカのリバイバルで用いられたフィニーの働きはダニエル ナッシュによる執り成しの祈りがあったからこそであった。フィニ-がある場所に行く前にダニエル ナッシュを先に送り、霊的なものを打ち砕いて天を開き、準備が整ってからフィニーを迎えて大いなる神様の御業がなされました。メッセージで語られたようにフィニーのような働きは誰もができるわけではないが、切なる執り成しの祈りは誰にでもでき、本当に価値のあるものであることを思います。


執り成し手は代価支払いの覚悟をのメッセージより

本物のとりなしの祈りは、他人のために十字架を背負い、祈れないその人のためにその方の代わりとなって悔い改め祈ること・・・ そのような執り成し手を神様は探しておられます。(10分~)(16分~)

自分もそのようなものとなれますように。

神様の基準【聖さ】

人が思う基準と神様の基準は違います。
神様は本当に聖いお方です。

「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることはできません」ヘブル12:14

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」マタイ18:3

・ほとんどの罪は悔い改めたから、少しくらいは残っていても大丈夫
・他の良い行い、働きをしているから・・・
・思いの罪くらいなら多目にみてくださる
人との関係においては普通に思ったりすることですが、御言葉から見る神様の基準は人の考えとは違うことを思います。

自分にとって衝撃的な証は
・その日の朝までは天国にいけるはずであった方が、姦淫の罪により、地獄へ行ってしまった兄弟のこと。
・貧しい人を助けるために勤務先の病院から薬を手配し(盗み)、それをやめなかった姉妹も地獄へいってしまったこと・・・神様は何度もそれをやめなさいと語っておられたそうです。
どのように敬虔に見える、また忠実な働き手であったクリスチャンであっても、日々の悔い改め以外に罪の赦しはないことを私に警告してくださっていることを思います。

聖く生きていくことには困難が伴う時代でありますが、神様の目から見てしみも、しわも、傷もないキリストの聖なる花嫁として御前に立つことができるように、瞬間ごとに歩んでいけますように。

「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです」エペソ 5:26、27